2015年5月23日、九州国立博物館(以後 九博)での「リレー講座 よく分かる! 戦国大名展 第3回」を聴講しました。予定は1時間半、テーマは「貿易都市の考古学」と「戦国九州の刀剣」。概略ですがレポートします。

講座が始まるまで

講座開始の1時間と少し前に現地着。定員70名に対し既に30人程の行列。
女性が半数程か、年齢層も若い。この手の講座や講演会で、年配の男性が大半の中こそこそ聴講する事が多い身としては驚きかつ新鮮。
やがて入場、資料を取って着席。以後、席や資料を増やしながら増員されてゆき、講座開始までに教室は満員御礼に。

前半テーマ「貿易都市の考古学」冒頭

講師は九博の主任研究員の男性。
冒頭挨拶で 「満員御礼。刀が人気でしてね、こんなに若い人、女性も多い中しゃべるのは初めてです。雰囲気が違って緊張しますね」
女性中心に小さな苦笑いが漏れる。
※当ブログの性向上、講義内容は後述します。


後半テーマ「戦国九州の刀剣」

講師替わり、九博の刀剣・甲冑・金細工等担当の研究員の男性。展示中の刀剣について、一振りごとに解説。

●刀の美術品指定、産地、刀匠など

・展示中のおもな刀の一覧。有名だからといって、国宝や重要文化財など指定が入るわけではない。例えば「雷切丸」は未指定である。

・刀を作るには、素材の砂鉄の産地であるなど条件が必要。刀に向く砂鉄が取れ名刀を輩出する土地は特に「五家伝」と呼ばれた(備前、大和、美濃、相州(相模)、山城)。

・左文字は博多(福岡市)に住んでいた刀匠である。

・ほか宝満山(九博と同じ太宰府市の山)ふもとに「金剛兵衛(こんごうひょうえ)」一門。豊後(大分県)は「数打ち物」と粗製濫造にもいわれるが、名品も出している。


●刀の種類と展示の向きの関係

┌ 太刀:長さ2尺以上(約60cm)、刃を下に向けて鞘に収め、金具で腰帯に吊って帯刀
└ 刀(打刀):長さ2尺以上、刃を上に向けて鞘に収め、腰帯に挿して帯刀

基本的に展示は「使われていた状態の向き」、つまり刀の場合は「鞘に収められていた時の向き」にならって向きが決まる。ただし例外はある(銘を見せたいなど)。

・脇差、短刀、薙刀、長物の説明もさらっと。


●各刀剣の解説

「太刀 源国□(末字不詳)」 鎌倉時代 柞原八幡宮所蔵(大分県)重要文化財

・銘が消えて最後の文字は不明。山城鍛冶(京都府)によるものか。伝 大友家寄進。

・太刀の中でも「大太刀」に分類(長さ108cm)。

・表裏に仏教モチーフの彫り物。瓔珞付天蓋・梵字・蓮台・鍬形・三鈷剣/梵字・蓮台・素剣。

なぜ彫り物に仏教?議論はあるが、有力説に「元寇」との関係。

・この手の彫り物は元寇以後にしか現れない。外国から襲撃を受け、撃退したものの「今度はいつだ」と何年もの緊張状態となり、武器に仏教の加護を願ったのではないか。

・サビなど状態は良くないが、彫り物が凄いので展示品に加えた。


「脇差 無銘(雷切丸/らいきりまる)」 鎌倉時代 立花家史料館(福岡県)

・無銘ながら「相州物の由」との鑑定あり。(相模、今の神奈川県)  

・立花道雪(たちばなどうせつ)という強力な大名の愛刀。  

・「千鳥(ちどり)」の名だったが、ある時雨宿りした道雪に落雷するもこれを咄嗟に振るい雷を切って以後「雷切丸」と呼ばれたという伝説がある。
 
・実話かどうかともかく、現所有者は「切っ先の白けた所、そこに雷が落ちたそこで雷を切ったのだ」と語る。


「短刀 銘 吉光」
 鎌倉時代 立花家史料館(福岡県)国宝  

・粟田口の名工。短刀の名手。  

・柳川藩立花家(やながわはん)に伝来。同工の作品は大友宗麟(おおともそうりん)も所持(骨喰藤四郎)。  

粟田口吉光の刀は「肌がきれい(刀用語で「肌がつむ」)」。直刃ながら、細かな動きがあって見ていて飽きない。

吉光の刀剣のなかでも、本作はひときわ身幅が広く、姿・刃文・地肌ともに格調の高い優品(九博サイトより)
※筆者註:一期一振・藤四郎兄弟の兄弟刀にあたる。


「太刀 銘 康次」
 鎌倉時代 光ミュージアム(岐阜県)国宝  

・室町幕府第15代将軍・足利義昭より、薩摩藩 島津義久(鹿児島県)拝領、附糸巻太刀拵。  

・備中青江一派の刀工(※筆者註:古青江派)。  

青江刀工の特徴は「銘を普通とは逆側に切る事」。通常、腰に帯びた時に外側になる側に銘を切るが、青江派は逆の佩裏(はきうら)に入れる。  

・銘が逆なので置き方を迷ったが、今回は通常通りの太刀置きにし、銘は写真を添えた。  

・当時の中央政権と九州の関係を表す好資料。しっかりした文献、しかも著名な人物が登場する資料が残っている物品は、実はそう無い。

青江派の刀剣のなかで、最も長く身幅が広い豪刀です。(中略)最後の室町将軍・足利義昭が、幕府再興の望みをかけて上洛を計画した際、九州の覇者・島津義久に支援を求めて贈ったものです。(九博サイトより)


「刀(長巻直し)折返銘 正平十□肥州末貞」
 南北朝時代 鍋島報效会(佐賀県)県指定文化財
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九博サイトより

・伝 龍造寺隆信 所用。  

・末貞は、いわゆる肥前刀より前の、肥後(熊本県)延寿派の流れとされる。肥前塚崎荘(佐賀県武雄市)の御用鍛冶。  

・長い刀(長巻)を短くするのに「長巻直し(ながまきなおし)」という手法がある。根本の茎(なかご)を刀身側に折って癒着させ、寸詰めする方法。「磨上げ(すりあげ)」とくらべ、銘が残るという利点。  

刀は、作られて以来そのままの姿であり続けるわけではなく、時代で改変を加えられる物。磨上げ、彫り物、拵(こしらえ)の変化(目釘穴/めくぎあな)。  

※筆者註:長巻(ながまき)とは、茎(なかご)が刀身と同じくらい長く、従って柄(つか)も長いスタイルの刀。全長約200cmのうち刀身と柄が半々位のサイズ感。戦国時代に発展、長槍や火縄銃の台頭で衰退。徳川将軍家が「3尺以上の刀は所持禁止」としたため、多くが長巻直しの大太刀に変えられ、寺社奉納や有力大名に献上された。


「片鎌槍 無銘」
 室町時代 東京国立博物館
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・熊本県 肥後藩主・加藤清正(きよまさ)のトレードマーク。豊臣秀吉の重要な家臣。  

・清正は同じスタイルの槍を何本も所持しており、そのひとつ。清正の娘・瑤林院の嫁入り道具として紀州徳川家に伝来。  

・清正が朝鮮出兵した際、虎と対峙し、片刃を食いちぎられつつも見事虎を狩ったという伝説がある…が、後世の研究で「最初からこういう形で鍛刀された」とされている。  

・現代の刀工達に作り方を聞いても違う話が出たりと確定しない。ロストテクノロジーに近い


「太刀 銘 来国光」
 九州国立博物館 国宝
「刀 無銘 伝 来国光」 ふくやま美術館寄託 小松コレクション(広島県)重要文化財  

・来派は、粟田口と並び山城(京都府)を代表する一派。来 国俊(らい くにとし)にはじまる。 (筆者註:国光は国俊より1世代ほど後の人物) 

・「来(らい)」という日本ふうでない苗字→「先祖の鍛冶 高麗よりきたる」と『観智院本銘尽(日本最初の名刀事典)』にあり、朝鮮半島がルーツと推定。  

・整備な姿。直刃(すぐは)。うねるタイプの刃文ばかりだった九州の刀細工に、大きな影響を与える。


「短刀 銘筑州住左(太閤左文字)」
 ふくやま美術館寄託 小松コレクション(広島県)国宝
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九博サイトより

・豊臣秀吉(=太閤)の刀。  

・左文字は、筑前の博多(福岡市)に住み、「左」と1文字だけ銘を切る刀工。左衛門三郎の略とも。  

・名工・正宗(相模/神奈川県)の弟子で「正宗十哲」のひとり。

左の登場で、九州物の刀剣は大きく変化し、新風を吹き込んだ。

※筆者註:左文字兄弟の兄弟刀。左文字の最高傑作ともいわれる。


「太刀 銘筑州住左(江雪左文字)」
 ふくやま美術館寄託 小松コレクション(広島県)国宝
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九博サイトより
 
・板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい)の愛刀。  

・九州→小田原→江雪斎→秀吉→家康→頼宣(大阪の陣に佩刀し出陣)。  

・豊臣秀吉あたりの桃山時代の拵(こしらえ)を残す貴重な資料。  

・鞘は、「黒漆 研出鮫鞘 打刀拵(くろうるし とぎだし さめさや うちがたな こしらえ)」。鮫(現代ではエイ)の皮を貼り、漆を厚く塗った所を削って皮を微妙に露出させ、細かくごつごつした質感を出しているのが、雪のようである。

●刀剣を楽しむポイント

・姿…反り、切っ先、茎(なかご)など

・刃文(はもん)…直刃(すぐは)、のたれ、小乱(こみだれ)、丁字(ちょうじ)など

・刀身彫刻…樋(ひ)、仏教的デザインなど

・拵(こしらえ)…糸巻太刀拵、鮫革など

・作品にまつわるエピソード

・自分なりのこだわりの部分を持つと、刀の鑑賞が楽しくなる。

・誰が使ったか、どういう伝説があるか…興味がわく大事なポイント。

本見たり、話を聞くだけでは刀は分からない。実物を自分の目で見るのが良い。


●今後の展示予定「白鞘入剣」

・宇佐神宮(大分県)所蔵  
・2015年5月26日~6月28日  
・南北朝時代作。九州で南朝側を束ねた懐良親王(かねよししんのう)奉納と伝わる。  
・曇っていたのを砥ぎ直し、綺麗にしたもののお披露目となる。


前半テーマ「貿易都市の考古学」概要

・考古学は、文献史学に対し、出土品とそれらが出た穴を対象とする。
・完品は望めない中、残されたもので当時の本来の姿を引き出す。
・残りやすい素材と残らない素材がある。「もし僕が今の格好のまま埋もれたとして、残るのは眼鏡と時計とベルトのバックルくらいでしょう」
・豊後府内と博多の出土範囲について。現在、福岡市では新しい地下鉄路線を建造中だが、掘ると出るので発掘調査(キャナルシティ近郊の発掘現場の写真)。現代の街の下に眠る中世や弥生の上で、私達は生活している。
・外国との貿易の窓口で栄えた豊後府内等からは、輸入品が多く出土する。景徳鎮、タイ製合子、馬や魚、ラクダ(?)形の水差し、ベネチアンガラス、真鍮の灰さじやカギなど。
・古来からの土器「かわらけ」は良く出土するが、多くを語る。中世、かわらけは宴会の使い捨て皿だった。最初はロクロの在地系のスタイルだが、ある時を境に手捏ねの京都系が出土し始める。流行りの変遷がわかる。
・博多等からはキリスト教関連物も。十字架(クルス)やメダイを鋳造する型など。今ある十字架を粘土に押し付けて鋳型を作っていたらしく、デザインの輪郭が曖昧になっていたりする。
・豊後府内から出土したとある墓の人骨は、腕を組んでいたのでキリシタンと分かった。
・普通、食器類などは割れたりして「捨てられた」状態で出るが、高価な景徳鎮(中国由来の陶磁器)などが、きれいに埋められている事がある。たいてい焼土の下。「埋納(まいのう)」といい、戦乱で燃やされる前に埋めて、戦火を逃れようとしたのではないか。
・焼けて放置された倉庫と思しき遺跡が出た事も。年代が、16世紀、大友領が島津家に攻められ瓦解した時期と重なり、その戦火の影響かもしれない。
・このように、出土品からは色々な事が分かる。